作り手から買い手へ、そして聞き手から使い手へ

 人は音楽を聴くのではなく、音楽を使って楽しんだり落ち着いたり、和んだりしているのではないか。使う道具として自分用に「レコードからテープへ」、「CDからMDへ」落とし込んで持ち運んでいたが、今ではとりあえず集めるだけ集めて、使える時に使うように変わったのかもしれない。(音楽のことはあまり考えていなかったので、これから少し考えなければ…………)

mF247主宰 丸山 茂雄さんの「mF247を始めるにあたって」より。

音楽リスナーにとっての<情報>と<作品>
 昔も今も、自身が強く思い入れることができるアーティストや楽曲に、そう多くは出会えるわけではなく、だからこそ出会えた時には喜びもひとしおなのだが、iPodに数千曲も入れられるという状況は、もはや音楽という〈作品〉を収集しているのではなく〈情報〉を集めて持ち運ぶという感覚なのであろう。つまり「1枚のビニール盤がすり切れるほどアルバムに針を落としていた時代」は、誰にとっても紛れもなく音楽は〈作品〉として聴かれていたわけだが、新しいメディアの発達とあいまって、リスナーにとって音楽は〈作品〉ではなく〈情報〉として捉えられているのではないだろうかという考えに至ったわけである。

 これは、音楽の内容や質が時代とともに変化してしまい、過去には〈作品〉として高水準にあったものが低水準の〈情報〉になってしまったと主張しているわけでは決してない。あくまでもリスナーの音楽の聴き方の変化に主眼がある。アーティストもレコード会社も、連綿と〈作品〉をリスナーに提供してきたつもりではあるが、実はいまのリスナーにとって音楽は〈情報〉としてまず捉えられているのではないかと思う。ファイル交換やアップロードが露見してきた時に、権利者やレコード会社は、大切な作品を勝手に盗まれていると主張し、私自身もそう考えていたが、もしもリスナーが「情報を集めている」という意識であったとするならば、大きなギャップが生じていたのではないだろうか。