学びとは

内田樹さん『学び・再構築──未来に向けて変化を続ける


消費主体として人格形成した人、通貨に対し等価サービスが得られると刷り込まれた人にとって、学校教育の場で行われるのは、価値も意味もわからない不当な取引であり、切り捨てることに何の逡巡もない。それが諏訪哲二さんの言う『オレ様化する子どもたち』。親たちも、経済合理性、商取引のタームで、頑張るといいことあるよ、金が入るよ、と子供を誘導する。これは「学ぶ」ということの構造的な瓦解だ。

学校教育、家庭教育では、経済合理性に基づいて努力に対するリターンを語ってはいけない。大事なことは、「うるさい黙れ、いいからやるんだ」と。学ぶということは、等価交換や商取引ではない。もっと非対称的で、不条理な経験だ。学ぶというのは、その不条理な経験、見えない未来に身を投じ、自分が今やっていることの価値や意味を、行為を通じて1秒1秒発見していく。出発点において意味はわからない。学ぶことを通じて意味として立ち上がってくる。そのダイナミックな運動プロセスに身を投じることが、学ぶということだ。

人生は微妙な入力の差で変化する。喋っているうちに、途中で考えが変わったり、新しい入力があるたびに自分のシステムが組み変わって出力が変わる。既知でなく未知。「時間の未知性」に敬意を表し、自分の未来を開放し、時間の中を転がっていくことが、学ぶこと、考えることだ。

停止している人とダイナミックな運動状態にある人。子供と大人で言えば、自分が自分であることにアイデンティティを持つのが子供で、自分が自分でなくなる変わり方にアイデンティティを感じるのが大人。子供と大人にはそういう次元の差異があったのに、今、次元の違う大人がいなくなった。