自己否定的レース

意図的な知識獲得』より

つまり、「将来にわたってある生活水準を保ち続けようとするならば、その社会の子弟は“その社会の内部で自ずと調達される程度の知識”を無自覚的に習得するだけでは不足していて、意識的・積極的に外部から先進的知識を導入し、それによって自分を自分が育った共同体の前の世代とは違ったような知識体系に組み込ませていかないと間に合わない」という価値判断が働く社会とそうでない社会があるんではないか、ということです。知識の面で自己複製的な社会と自己否定的な社会、とも言えるかな。

つまり、社会と社会は競争していて、その社会間競争で勝ち残るためには、その社会で自ずと獲得される知識だけではなく、社会の外部からわざわざ知識を創造させ内部化させないと間に合わない、つまり知識処理組織として内部完結できないくらい高度な知識創造プロセスを組み込んでいるべきかそうでないか、という判断が働いているのが近代工業社会ではないのかな、とか思います。


 教育と職業の分離が一つの原因ではないかと思う。農業や自営業であれば親の働く姿を見ながら(観察)と共に働きながら(疑似徒弟制)、それに関連する知恵をいろいろな機会を利用して学校外で身につけていける(しかし、無自覚とまでは言い切れるかどうか。半自覚的と言いたい)。

 他方、職業から切り離された、あるいは職業から自由になった教育は、親の仕事から得られる知識はほとんどない。知識は学校で提供され、しかもどこまで到達すれば、仕事を遂行する上で完全ではないが満足できる水準に到達できるかがはっきりしない。はっきりしないが、より高度な知識を習得し、再現できれば、社会的に評価の高い高校や大学に入れ、それが一つのシンボルとして職業選択の相対的な優位性を持つ(と信じられている)。そして、この評価の高い教育機関に入るためには、他の競争者がどれくらい知識を身につけるか、あるいは知識を身につける方法を開発するかに関わっており、そのために絶えず蓄積や革新を行っていかなければならない。
 自己否定的な社会は、誰かの自己否定から生じ、自らもそれに一役買って(自己否定をして)しまうとそのレースは自動的に進行して誰も一人では止めることができなくなる(談合すれば別だが)。もちろん、そのレースから降りることもできるが、降りた瞬間に敗者という定位置が待ちかまえている。


 農業もひとたび自己否定的レースを開始すれば、同じことが起こる可能性が強い。たとえば、信越キノコ戦争などがその例となる。これまで、自己否定的レースが貫徹していなかった職業では半自覚的職業教育が機能しているだろうが、ひとたび自己否定的レースを誰かが仕掛けると、その力は低下することになる。農業を例に取ると、農学系、生物科学系の教育やマーケティングの知識が、半自覚的な作業知識の習得よりもますます重要となるということだ。