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福耳コラムのエントリー「 「クリエイティブ」の競争力 」より
つまり要素は既存のものの場合でも、新しい組み合わせパターンについての知識・情報は間違いなくゼロから創造されているのだ。それはどこから湧いて出てくるのだろう。
和歌や俳句を例にとあると、言葉、これまでに作られた作品、新作を作ろうとする時の周りの状況。これらはすべて要素。
- 言葉は多くの人に共通
- これまでに作られた作品も、多くの人に共通
- 新作を作ろうとする文脈も似ている(中秋の名月を見て、失恋をして、歌を詠む)
ところが、
- 言葉は辞書的に万人に共通だが、使いこなせるだけの知識の蓄積は万人共通ではない。ここに熟練や反復による差異が生じる。その差はわずかだが他者とは異なる要素を使う可能性が生まれる。
- これまでの作品は調べれば万人共通だが、どれほどの数の前作に精通するか、精通できているかは個人的に差がある。その差は前作をどのように利用するかについての微妙な差を生む。
- 大局的な文脈は同じ(たとえば子供入学)でも、個々人の文脈には微妙に差が出てくる(はじめての子の入学。お受験をしての入学等々)。この点でも要素に差が生じる。
要素は、既存のものを使うが、どの要素を使うのか、あるいはどの要素を排除するのか。そこには選択の微量な自由がある。
次いで、組み合わせパターン。
- 作品を作る際の作法や言葉を利用するための文法
- 作法や文法を打ち破ってきた過去の経緯(これはかなり古い時期に行われると作法に組み込まれてしまうこともあるが、新パターン形成の歴史)
- その破壊を見て抱く個人的な思い(→パターン破壊の中にパターンを見る)
- 個人の思考パターンや世界観(→混沌とした世界に意味・パターンを見る)
以上は、基本的には、社会的にも個人的にも、これまで蓄積されてきたものだ。社会や集団から向けられる同調圧力により、他の人とほとんど変わらないパターンを持たざるをえなくなる人が多くなり、その結果どれもこれもみな似たような作品になるというおそれはもちろんある。
しかし、作法を打ち破ってきた人々の数とその経験、過去の破壊の意義を考えに考え抜く自由、そして長い間かかって形成された個人の思考パターン。これらは過去から蓄積されてきたものであるが、新しいものを生み出す力でもある。泉からわき上がる新しい水は過去に降った雨を地下水脈が運んできたものだ。過去に拘束されつつ、過去を超えることが、創造のコアではないだろうか。
ただし、超える方法は何か問われれば解は一つではないということだけは分かるが、今のところ、私に答えは用意できていない。ただし、創造は、ゼロからのスタートするものではなく、既存(要素も組み合わせも)を利用しないと始まらないということを前提にして、答えを探し出す旅を始めてみたい。