売れる商品=気づき商品

福耳コラムのエントリー『決定論から発見論へ』より(福耳さん、いつも考えるネタをいただき、感謝 m(_ _)m )


「売れる」ということを、5wから考えてみた。


1.誰が買うのか→子供向けと思っていたら中年のおじさんも購入
2.いつ買うのか→夏に買われるばっかり思っていたが冬も売れる
3.どこで買うのか→関東だけで売れると思っていたら関西でも売れた
4.何が買われるのか→チョコを買うのではなくておまけを買う(何?おまけじゃないって。チョコの方がおまけか。_| ̄|○
5.なぜ買うのか→必要じゃなくて、あの子もこの子も持っているから。
(Howはマネジメントの役目で、上の五つに巧みにできれば誰にも気づかれずに影響を与えるようとしている。)


 基本的には既に予兆があるんだが、その予兆を早く気がつくことができるかどうかなんじゃないかな。その予兆に気がつくためには、既に自分の前にある「無理、無駄、ムラ」を取り除くのではなく、あえてそれら(常識)に挑戦してみることが必要みたいだ。
 
 結果的には、意味のないことか、あるいは意味があってもマーケットが小さくて取り組み価値がないなんてことが大半かもしれないが。飛び込まなければ見えないこともあるだろう。もちろんむやみに飛び込めば大けがを負う可能性も捨てきれないのだが。

 
 基本的に、売れる商品は気づき商品と考えられるなぁ。すなわち、欲しくて欲しくてたまらなかった商品は数少なくなり、「え。こんなんあるんだ。便利そうだな」「へ〜〜。かわいい」など、誰かが自分の感性をみたしたり、ほんの少しの利便性を享受するために、使っていることが、口コミ、マスコミ、ネットコミュニティで広がって小爆発(ヒット)や大爆発(ヒット)するんじゃないだろうか。


 要は、今の「自分」にとって「少しだけでも意味」があり、その意味が少しだけの範囲でもいいから「社会性」を持ち、その意味を相互に「確認できるの場」を持つような製品やサービスが、売れそうだが。


 まあ。こんなこと言っても、だから何をどう売るんだと問われれば、沈黙するしかない(専制的なHowの前には、跪くしかないのか)。