学ぶことの理由について

元ネタは「子供の「どうして勉強しなきゃいけないの?」」です。 

何か目的があり、それを達成する方法を探すという状況を想定してみる。


 どの方法がよいか分からないとすれば、「一応トライしてみる」、「本などで調べる」、「人に教えを請う」。これぐらいはやってみるだろう。


 ただし、いくつかの方法が分かったとして、そのうちどれがよいかを決めるのは自分自身だ。自分の中の評価が固まってないとすれば、口コミサイトを利用して、自分に近いと感じられる他人の評価を借用し、選択を終了し、方法を試す。だめなら再度選択肢の探索にはいるか、今試した選択肢を改善しようとする。


 これは学びの基本的な形態だ私は思う。


 もう一度見ると、

 1.目的がある

 2.方法を探す

 3.評価をする

 4.選択した方法を試す




 ここでの条件は目的がどれくらい明確であるかは方法の探索との関係で変化してくるが、とにもかくにも目的が設定されているということが条件となる。


 子供から何で勉強するのかと尋ねるとき、目的に関する疑問である場合と、方法習得の可能性や評価を聞いている場合のいずれであるかを考える。


 評価基準の場合:『ここで』述べられているように、目的というよりも、勉強の方法やその評価で不満を感じていれば、不満を解消するような指導を行うのであれば理由を問わなくなる。


 他方、目的に関していえば、『この方』が述べているよう、個人が設定するようになっていれば後は方法や評価は自分で検討するようになり、理由は問わなくなる。



 とすると、「徹底的に一般的な理由で子供を説得して」勉強させるのか、「おまえの好きなような理由を見つけろ」といって見つけた時に方法や評価について教えるかのいずれかだろう。

 
 小中学生までは具体的な理由を決めてしまうことはそのこの将来性を減じてしまうと考えるなら一般的な理由で得心させるしか術はない。それはある意味では夢を与えるということに近いかもしれない。科学者になりたいとか、困っている人を助けたいとか、大金持ちになって宇宙旅行したいとか。そんな夢を見させて上げるのも良いかもしれない。家業を継ぐような立場の子供であれば具体的な目的ははっきりしているので理由は必要はなくなる。


 高校生、特に大学生は自己の目的の探求に励まし、一方向的な方法や評価の教授は差し控えるべきかもしれない。もっと内省して目的を探れとか。


 もちろん、何で勉強なんかするのと聞いてくるのは、小学生高学年から中学生のような気がするので、夢を失いつつある時期であり、他方では自分の目的を決定できないというフラストレーションが溜まる年代なので、自己の目的をいかにうまく見つけられるかを指導すべきかもしれない。ただし、このフラストレーションが目的レベルではなく、方法の習得レベルで起こっているとすれば、目的の発見がただちに自発的な学習につながらないかもしれない。俺は何をやってもだめなんだというような刷り込みを小学生段階で入れないようにする必要はあるだろう。