新知識の創造

福耳さんのエントリー『新知識獲得能力開発を考える

ここは面白い↓

つまり「既にある知識を駆使して対象を制御する仕事」ではなく、「その知識もまず獲得することをなんとか制御しようとするメタ仕事」のコストパフォーマンスが良くなければいまどき日本でものづくりはつらい


エントリーの中で、福耳さんはこのように嘆くが、

僕の予感ですが、「これからは創造的でなければ通用しない」という命題と、「ほとんどの人材は創造的たりえない」という命題、どっちも正しいとすれば、「これからはほとんどの人材は創造的たりえないので通用しない」のじゃないかね、なんて悲観しています。

CAD・CAM一つとっても以下のように様々な改善や創造性を発揮する場あるとするなら、世間には、自らの趣味嗜好(手を動かしたいタイプや理屈っぽいタイプ、いろいろ試したいタイプなど)や能力にあった場がかなり多く存在し、ほんの少しの創造性でも良いから発揮できるような訓練を受ければ、かなり多くの人が創造性を発揮できるという気もしますが。少しユートピア過ぎるかもしれませんが。

「もう人間がわかっていること」については作業を情報化・自動化して記号情報処理でわっとやっちゃえるんだから、日本の製造業は「まだ人間がわかんないことをわかるようにすること」に仕事の中身が移行する段階にいるわけです*1。例えば製造業については、CAD・CAMが普及してきたら「そのCADCAMで出来ないくらい微妙な細かい加工に職人技で挑む」か「そのCADCAMでまだやったことがない新素材にCADCAMをぶつけてみる」とか、「CADCAMの使い方そのものを工夫して高度化する」とか、あるいは「CADCAMじゃあまどろっこしいので手っ取り早くアナログで手でやっちゃう」とか、とにかく「未だそれを制御する知識については良くわかっていないかせめてまだそれができる人がそのおじさんしかいなくって他の人にわかるような形で言語化されていない知識を駆使する」仕事ばっかりになるわけですよ、


(追記)

 なにかこう、新しいこと、必ずしもいままでにないもの、「返事じゃない言葉」、慣例を踏まえないもの、旧習をさりげなく覆すふるまい、逸脱、拡散、流転、変異、生まれて育ってくサークル。

我々がそうと思っていたものは単にそれしか知らなかったからそう感じていた錯覚に過ぎないものであるのと同じように、我々が新しい創造と思うものは単にそれをいままで知らなかったからそう感じる錯覚に過ぎないものであるのかも知れません。実は古さが相対的な存在であるように新しさも相対的な存在であるかも知れず、全てはどうせ我々の小さなレンズに移る範囲の認識の問題で、本当はなにもかもがずっとあってありつづけるものなのかも知れませんが、それでもそれをなんとか知りたい、感じたい。

 赤字の部分はいいですね。創造とは苦闘の部分と、穏やかな感性の部分が同居しているのではと、感じました。