ハードスタイルとソフトスタイル

shibaさんのエントリー「創発の意味するもの」から知った。以下のサイトより。

情報社会学序説―ラストモダンの時代を生きるのエントリー「5.1.1. 創発(イマージェンス)」より

タークルはまた、子供たちのプログラミングの手法が、これまで想定されてきたような「合理的」「計画的」なものばかりとは限らないことにも気付き、プログラミングにおける「ハード・スタイル」「ソフト・スタイル」という二つの類型を見いだした。前者は、世界を自分がコントロールできるものとみなし、複雑な世界を単純化し法則に従うものとして捉えようとする傾向をもつ。コンピューターをも力で支配し、思い通りに動かそうとするのである。それに対し後者は、世界を自分の力ではコントロールできず自分が適応していくべきものとみなし、空想の中で世界と自分を、コンピューターと自分を、一体化させるのである。タークルによれば、後者のタイプの生徒 (女子に多い) は、科学に弱く、プログラミングに上達するはずがないと思われていた。しかし、実際にはコンピューターとの共同生活の中で、後者のタイプの生徒の間からもすばらしいプログラマーが続々と生まれたのである。コンピューターの世界は、科学の世界と同様、これまではハード・スタイルの人間のための世界だと考えられていたが、ソフト・スタイルの人間にも、十分活躍の場がありうるというのが、タークルの発見であり、主張でもあった。

【タークルを読んでいないのですが、以下を上の文から想像して書きました。後に変更あるかもしれません。m(_ _)m 】
 
ハード・スタイルとは、自らの力で混沌たる世界である未踏のジャングルを切り開いていくタイプのようだ。ある意図を持って道を切り開き、その道がこれから進むべき方向の意義をより明確にする。すべての問題は自らの手で解決できると信じている。

 ソフト・スタイルとは、自らが被るすべての事象を受け止めて、それとともに時を過ごす。自身だけでは意味が定まらず、その受け止めた事象と自らが緩やかに交流しながら、あるいは経験の中に浸りきって、意味が作りだされていく。その意味は、自分が創ったのか、外部の事象が創り出したのか、判然とはしないが創り出されていくはずだ。外部から見ると、その様子は理解しにくい。意図(事象と交流の結果の事前の想定)が明確ではないため、これから行うことが読めないからだ。もちろん当人もどういう結果が出るか分からない。なぜなら事象と自分の相互作用が結果を生み出すからだ。たとえ自分が明確な意図を持っていたとしても、それだけでは決められない。いやんや意図を持っていない場合をや(この使い方で正しかっただろうか?)。

 このようなソフトスタイルには、意図はないが、気づきや思いつきはあるはずだ。事象との交流の際に、まったく無自覚的に相互作用するとは考えられない。なにがしかの微細な気づきをもとに事象に働きかけ、事象がなにがしかの応えを返す。そしてそこでまた新たな気づき(あるいは前の気づきのさらなる適用もあるだろう)をもとに、働きかける。そしてある種の結果に到達する。ただし、どのような結果が得られれば相互応答のプロセスを打ち切るのかということを決定する基準も、上の相互応答の中で形成されていくことになるだろう。(このような微細な気づきの通った跡を追いかけ、構造化すれば因果関係が導き出されるようになるかもしれない)

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