ググレるかどうかではなく、ググった後が問題だ。

「ググる」子供と、「ググれない」子供

「惣村」の方は子供はしっかりと覚えてしまったようである。というのも、親に教えてもらった単語よりも、自分で調べた単語の方が、“作業のプロセス”がある分だけ記憶に残る。調べたホームページ(Webサイト)を読めば、その分、惣村についての知識も深まるわけでもある。こうして娘の夏休みの終盤は、グーグルと首っ引きで過ぎていく。

 同じ学校に通う子供でも、インターネットが使える環境の子供は検索したホームページを“コピペ”(コピー&ペーストのこと)して、大学の論文級のレポートが完成できる。一方でインターネットが家にない子供は、図書館で何冊も本を借りて、それを読みながら自力でレポートを書く(コピペなんて荒技はできない)。一晩に数ページのレポートを書くのが精一杯だ。だから「デバイド」、つまり二極化が起こる。インターネットを利用できるのか、利用できないのかという、デジタル活用度の“貧富”の二極化が、子供の将来の“機会”の二極化につながるのではないかと、皆が危惧したわけである。

 このようなレポートの例なら、まだ、本を読んで自分でレポートを書いた子供の方が内容は身についているかもしれない。しかし、現代のデジタルデバイドはもっと直接的である。

 親が子供を塾に通わせているかどうかでまず差がついて、そのうえで家で子供が「ググれるか、ググれないか」でさらに差がつく。答えを調べて暗記するのであれば、問題集の解答欄よりもグーグルの方が能率がずっとよいからである


! 小学生の子どもがグーグルを自在に操ることに感じる漠たる不安

運良く他人の感想文が見つかった場合、自分で本を読んで感想文を書く代わりに、他人の文章を利用したくなったとしても不思議ではありません。その方が圧倒的に楽ですから。また、自分で読むよりも複数の人間の感想文をまとめた方が、結果としてはバランスの良い作文ができあがるとも思います。バランスは良くても、きっとつまらない中身になるはずです。

検索結果のコピペが増えると、最も悪影響が出のは「書く」能力です。書けなくても、読み方さえわかればパソコンが漢字変換してくれる昨今では、大人も含めて漢字力は著しく低下しています


上の記事を読みながら考えた。


デバイトされた子とそうでない子の(いくつかの)分岐点

1.同じ教師から教育を受ける。同じ宿題を出される。同じような問題集を渡される*1

2.問題集を解く

3.正解が見つからない場合→ここに分岐点

4−1.紙ベース環境
 分からないところは答えを見たり、教科書や参考書をひっくり返して正解を探す。教科書では関連する項目の説明がされているが、ページ数の制限もあり、概念間や事象間を関連させる範囲は狭くなる。その幅を広げるのが、参考書、辞書、辞典類である。しかし,これらを購入できるかどうかは,親の資産・所得しだいだ。その差を生み出さないようにするのが公的な図書館である。これにより,親の資産にかかわらず子供たちは誰でも質・量ともほぼ同じ程度の知識にアクセスできた。

4−2.ググレる環境


4−1と4−2の差異。

    • 資産的格差→パソコン購入。ブロードバンド環境。
    • 情報取得速度→上のエントリーにあるように、アナログ的情報収集との間には多大なる差が生じる。
    • 情報取得の簡便さ→図書館に行かなくても住む。24時間いつでもいい(子供は24時間態勢じゃないだろうが)

 ただ、これだけの問題であれば、100ドルパソコンとか、接続料金の低下などで解消される問題だ。情報デバイドは物的な環境で生じるとすれば、それは公的な援助(図書館にネット接続されたPCを置く→たいていの図書館にはありそうだ。学校に置く。)と、競争による価格・料金の低下で何とかなる。

    • 情報展開の容易さ→クリックすれば関連項目に飛べる。分からない言葉はさらにググる
    1. 矛盾情報閲覧の可能性→フォーマルな理解や解釈は教科書に載っている。それへの反論は今まで目にする機会は限られていた。しかし、ネットでそれを見つけるのは容易だ。

 このように一つの正解,一つの情報にたどり着くことが勉強ではなく,必要な情報と考えられる(これは思考力の一つ)を発見しようと努めそれを見つけ出す力,およびどんどん分からないことを検索する展開能力もネットは与えてくれる(従来であれば大部の百科事典の役割であった).

 しかし,問題はさらにその先になる.次のようなことを頭ではなく体でも(ググルことを通じてという意味)理解し会得していくべきではないかと考える.

    1. 正解は一つでないこと.だからその先に発見されない多数の正解候補情報が隠されていること。
    2. 正解を含めて,他人が出した情報や考察は自分にとって素材でしかないこと(コピペは素材を提供したことにすぎない).
    3. その素材としての情報(素材情報)を組み合わせる,あるいは結合すれば自分のオリジナルな考えになる可能性があること.
    4. ただし,素材情報の結合だけでは考察とは言えず,結合素材群の持つ意味(自分にとって,仲間にとって,地域にとって,社会にとってなど)を深く考え抜くことや,その考えを裏付けるデータを獲得することを通じて,他の人にとっても意味がああるオリジナルな考えを作り出せること.
    5. オリジナルな考えを表現するためにはじめて,書く力(表現力)は重要になること.オリジナルな考えがなけれなければ,表現力をつける努力をしても意味は少ない.


 要は,子供たちには,検索というのは,「正解の発見ではなく素材の発見にすぎない」ということを理解させ,素材の利用法を教えるべきであろう.

参考)「答えがググれる世界」の教育

*1:確かに私立の学校や進学塾に行くか行かないかという違いがあるがここでは情報獲得の差について考えるので除外します