敷居の低さが、書き込みを誘発する。

IBM Lotus Notes/Domino (R) をこよなく愛して。。。。のエントリー「Collaboration環境の長続きの秘訣? -1-」より

で、こういう環境にCommunityがあるとどうかというと、意外と参加しやすいと思うのが一般Userの心境なのかも知れないのです。

例えそのSNSに数百万人の会員がいたとしても、人間の心理的に敷居が低いと思うのではないでしょうか?

このCloseなCommunityで情報交換が行われ、やがてその情報はBlogに書かれOpenになるということを考えると、CloseなACLで守られた世界も必要なのではないかと思います。

もっとも心理的に敷居が低いのがあります。どこでしょうか?

 それは自分の日記です。日記は誰に見られるわけでもないのに文章化し、それを自分が読む。時には他の人に対する激しく、ゆがんだ感情が吐露される。あるいは自らの思ったことをまっすぐに書ける(時には読者を想定してフィクション化されることもあるかもしれない。え。そっちの方が多いのかもしれない。何となく今そう直感的に思いましたが。まあ。そういうことは少ないとして論を進めます*1)。素直な気持ちや自分のもつ知恵の表出が可能となる(ただし、あまりにうかつな表現は炎上を生むというおそれはあるが)。

 だからパーソナルブログあるいはプログのパーソナル化が重要なんだと思う。思ったこと、断片的なこと、途中経過的なこと、自分自身だけに利用可能な知恵。何でも書ける。

 ここもパーソナルブログと同じような使い方、あるいは吉川さんの言うような備忘録的な使い方をしている。だから、気楽に書き込める。

 では公開する意味は何か。生煮えのエントリーどころか、原材料(←それにも値しない?!)を並べてあるだけのブログを公開する意味は? 


完全に閉じてしまってもいいはずだ。


 自分にとって意味がある点ということがもっとも重要なのだが、並べた原材料を他の人がどのように見ているかも少しは知りたい。自分とは異なる見方や見解が存在することは、アンテナでも探れるが、エントリーに対する直接的なそして偶然の出会いは、公開しないと起こりえない。そして、その結果、残される一言がとても貴重だ(あんまり残されていないが)。

 では所詮。自分の利益だけが目的か。そうとも言えるしそうではないとも言える。究極的に言えば、公開すること、出会いがあること、書き込みを続けることに意味がある。内容は二の次でいい。

 いずれも現在もまた将来にもたいしたことのない知識のままであるかもしれないが、誰がどのように利用し発展させるか分からない。あるいは生データとしての意味を持つかもしれない。

 どんな利用か分からないが、公開されることと残されることが不可欠だ。それだけではなく、人として生きた証が残されるというのも忘れてはならない意義がかもしれない(国宝や文化財に落書きするなら、ブログに書けといいたい。未来永劫とは言わないが残り続けるぞ。グーグル様の中に)。

http://blog.livedoor.jp/senu2385/archives/50738725.html

*1:さらに思いついた。日記はもっとも重要な読者である自分へのフィクションなのだろう。事実ではない。なぜなら自らの観点でしか起こったことを書き込んでいないからだ。だから日記ではなく、吉川さんが言っているとおり備忘録の方がいい