知の並存状態

福耳コラムのエントリー「迷信の研究」より

思うに近代の知識というのは、特に排他的であり、自らを支持するものに対しては他の説明体系を支持しないような踏み絵を踏むことを強要する性格があるものなのである。一方前近代的な説明体系のほうは、自分たちのアプローチでも病気が治るし、他のアプローチでも治るかもしれないという一種の「因果仮説のゆとり」を持っている。

 前近代的な知は、膨大な経験の集積によって、あるいは信心によって、緩やかな因果関係が作り上げられていくと思っている。その旺盛な吸収力によって、近代科学の因果まで取り込んでしまうことは当たり前のことなのかもしれない。近代の知や排他(二者択一)的な考え方に毒されているものにとっては、それ自体が許せないだろうし、二つの知を並存させることに理解が及ばず、これこそ前近代的だ、迷信だと言って否定するだろう。



治ろうとする気力だとか、本人の体力などというものが、回復を左右するような場合、アプローチによって出てくる結果には差がなくなるかもしれない。もちろん、治癒の過程では大きな差があるのではあるが。


実は他のいろいろな人生にまつわる分野でも、我々は不可知性が支配する分野に関して、不確実で冒険的な仮説を駆使して対処しようとしているのではないだろうか。そしてそういう姿勢は人生を豊かにしていると思うが、全てを知っている事後的な神様的視点から見ると、それらの多くは迷信で無意味だったということにされてしまうのか。そういう「異なる仮設の並存状態」のダイナミズム(なんかクーンっぽいが)を探っていくのが呪術研究なのだろうか。まだ正しいと立証されてはいないが、正しいかもしれない仮説を構想していく営みの研究として。「まだわからない」という対象に対しては、医者も聖者も等しく無知であるという状態でどう振舞うのか。そういうことかな

 「異なる仮説の並存状態」あるいは「正しいと立証されてはいないが、正しいかもしれない仮説を構想していく営みの」ということであれば、人生とか呪術だけには限らず、経営の場にも、多々生じているだろう。
 元々福耳さんは、そういうスタンスなのかもしれないので、釈迦に説法( (^_-) )だろうが。


 ところで並存とはどのような意味で使われているのだろうか。(1と2の中間か.3は近代的な思考に毒され、並存ではなく体系化しているので、並存の定義には使えないような気がしている、自分で書きながらこれではだめだ。orz)

  1. 相互にまったく関わり合いのない、知の羅列状態
  2. 些細であるが相互に関係を持ち、ある事態への理解や対処に複合的に適用すれば機能が全体として上がる状態
  3. かなり関係性があり、相互排除的、あるいは相互強化的に、作用する状態。相互排除の場合は、いずれかの知を選択しなければならない。強化的の場合には、同時的適用か、順序を考えて適用するのかなどを考えなければならない。