セレンディピティについて

福耳コラムのエントリー『予期せぬアイデアの獲得法』に関連して、

セレンディピティについてはいつか少ししっかりと考えなければと思っていますが、ちょっとだけのコメント。



1.「価値観」と「価値を現実化する体系」によって、「価値」が存在するとすれば、体系に異質な要素が加わったとしても、それに価値的要素を付与する価値観が変化しなければ新体系にはならず、既存体系の改善に留まってしまうのでは?多様な連結を一つの価値観から眺めて,同一事象や同一価値に押さえ込んでしまえば,意味のある偶然など起こらず,ただのノイズか,既存価値観の中の例外事象とされてしまうかもしれない.行動も,ルーティン化のメリットを得るため同じ行為が繰り返されることになり,この点からも既存体系の拘束は強いはず.
 (もちろん改善でも、既存体系にきわめて近く元の体系特別がほとんど付かない改善から、言われてみないと既存の体系から引き出されたものだとは解らないような−−新体系にきわめて近い−−改善という幅を持つかも。)



2.変化に対して寛容な価値観を持つ場合、似て(ほんの少々の)非なるものが多様に生じ,それを新体系と名付ければ(名付け自体も価値観がそうさせるが)、既存の体系の再現はあり得ず、世の中は新体系だらけに見えるだろう。逆に,この場合,あらゆる変化を似て非なるものとしてだけに矮小化して扱うことによって,変化に寛容な価値観は揺るがなくなる。ぎちぎちと人を縛るのではなく,一見すると自由な価値観の元行動を続けていけるので,既存体系をいじろうとする意欲も起こらなくなる。
 さらに,新しい要素の結合が,どのような意味からみても価値を生まない結合になる可能性は高く,こうみるとセレンディピティは思うほど起こらないように思える.



 しかし,セレンディピティはおこる。なぜだろうか?


 いつか答えを見つけたい。