手段より観点

アンカテ氏のエントリー 購読フィード数1000以下の人間を「フツー」と呼ぶのはもうやめようより

マインドデバイドという概念が使われているが、これはデジタル分野だけではないはずだ。

盆栽に興味を持つ人持たない人、金融商品に関心を示す人示さない人。米国大統領選に関心のある人ない人。等々


 世の中の有りとあらゆるものにマインドデバイドが存在する。もちろん、趣味の世界に留まるものであれば生活に甚大な影響が及ぶことはない。その点でいえば、デジタルに関するマインドデバイドはますますわれわれの暮らしに影響を及ぼす度合が大きくなるだけに、無関心ではいられないはずだ。

しかし、

氏のもう一つのエントリー「キャズムの向こう側」の中にあるように

池田清彦さんが、生命の進化は古いシステムが新しいシステムに変化することではなく、古いシステムを残したまま、その上に別のレベルで新しいシステムが構築されることだと言っていた。

だから、全ての人がキャズムを超えるのではなく、キャズムを超えてむこう側で新しい秩序を構成しその一部となる人と、そういうものと無縁のまま生きる人に分かれるのではないだろうか。

キャズムのこちら側の人から見ると、むこう側の人も同じ新陳代謝をする同じ人類に見えるし、同じ社会の一員で同じものを食べて同じ乗り物に乗り同じお金を使い同じ政治システムに支配されている。だから、どこをどう見ても同じ人間である。


 当面残存するであろう古いシステム(内的および外的)に依存しきって生きる人にとって、新しいシステムは古いシステムが崩壊するまで存在しないも同然だろう。繰り返しになるが、自らの生活に直結しないものであれば、古いシステムが崩れようともほとんど関係がない。しかし、デジタル化のようにあらゆるシステムに通底するメガシステム(デジタル化、国家システム等々)が変革されようとしているなら、キャズムを越えてもらう以前に、少なくともその存在に気づいてもらう必要がある。

 しかしこれは容易なことではないだろう。われわれが直接関心を持て日々対応をしているシステムならいざしらず、その背後にあるメガシステムというものに関心が至る可能性は低い。もちろんメガシステム自体の一部がシステムとして隆起している場合、そこに関心を持つ人はその関心からたどってメガシステムに興味を抱く可能性は高い。

 でもそれは一部の人である。結果的に、メガシステムが大変革を遂げ、その影響でシステムが揺さぶられた時に始めて新システムへの対応を迫られる人が多数派となる。

 メガシステムに対するマインドデバイドの存在をどのようにして気づかせるかは、メガシステムへの関心を高めることよりも、生活に直結したシステムからデバイドの存在を気づかせる方が手っ取り早い気がする。

<確定申告>「パソコン強制された」と苦情殺到 鈴鹿税務署という記事が、デジタルデバイドではなくマインドデバイドという視点から特集記事にされることが望ましいかもしれない。