気になる本

Planned happenstanceのエントリーも参照。


偶然とは、(広辞苑第五版)によれば、

  1. 原因がわからないこと。
  2. 歩行者の頭に瓦が落ちてくる場合のように、ある方向に進む因果系列に対して、別の因果系列が交錯してくる場合。一般に必然的な法則は、現実には無数の因果系列の交錯の中でしか貫徹されないから、人間の認識の不完全さのために常に偶然的事件が起る。


 二つ目の定義が非常に参考になる。無数の因果系列の交錯により事象が生じるとすれば、自らの目的と意図的行動は一つの因果である。この因果の中から、あることが発見されれば必然的なものとして処理される。
 しかし、これ以外の因果が関わるとすれば、ほとんどすべての事象は偶然の所産となる。もちろん、同じ活動を行っているティームのメンバーや同じ目的を共有している人々の持つ因果は、それぞれが持つ因果から見れば偶然的な性質を帯びるが、その交錯自体にティームや組織の大きな目的−意図的活動が作用している。これを「準必然性」と呼べば、通常の活動はこの準偶然性の中に落とし込めるだろう。
 ただし、この大きな意図性の枠組みをどこまで広げるかによって、「準必然性」の境界は変わる。個人の意図のみを必然性の根拠とすれば世の中すべては混乱と曖昧さに満ちあふれる。しかし、社会というものを必然性の枠組みとすれば、この世は社会の意図通り動かされていくものと認識されるだろう。
 必然性がなぜ起きるのかと言うことを追求することとは逆に、どうすれば必然性を得られるか、あるいは偶然を引き込めるかということを考えてみよう。必然的な事象が複数の因果によって構成されているならば、できるだけ多くの因果に触れるチャンスを持つことが望ましいことになる。「トム・ピーターズ」がどれかの本で述べていたが、「あなたは、本屋で自分の興味のない雑誌のコーナーにどれくらいの頻度で訪れるのか」というのがあった記憶がある。これはまさしく異なる因果への接触を極度の高める方法の一つであろう。異質な分野の人と出会い、いろいろ言葉を交わすことも望ましいが、その可能性を求めても一度に30以上のジャンルに当たれるのは本屋さん以外には少ないのではないか。
 ビジネス雑誌に関心ある人は、育児雑誌は読まないだろう(もちろん、育児中の人は例外的だが)。ゴルフ雑誌は読むが、オートバイ誌までは読まないだろう。どのような因果がそこにあるのか。探り出すチャンスは町の中に存在する。もちろん、別の方法もあるだろう。会社での別の部門の同期との会話。よく言われる給湯室効果。等々。人それぞれの得意技があるかもしれないが、できるだけ異質度を高める工夫が必要となるはずだ。
 もう一つの課題は、自らの因果をどこまで突き詰めているかであろう。他の因果まで突き詰める余裕や責任はないが、自らの因果をできるだけ完成させておかなければ他の因果との交錯や交流の時点で全体的な因果の形成(必然性の完成)に結びつかない可能性がある。偶然の発見の物語の中に、あらゆる可能性を試したが結局うまくいかずあきらめかける等という記述があるとすれば、これは自らの意図性(必然性)の中で因果の細目に渡る点検を行ったという一つの証であろう。そして、そこに別な因果が加わり、他の観点からあるいは他の因果の混入により新しい関係が見いだされる。そして、そこから新たな因果の道筋の探究が始まる。必然性の枠が拡大したからだ。しかし、そこで完成できないこともあり、また新たな因果を求めざるを得ない。偶然性との出会いは努力の産物ではないかと考えられる。