文化開発とは

福耳コラムのエントリー『文化開発とは』より

文化が開発されるとはどういうことかというと、常識が変わるということです。
その文化が開発されるまではその商品が「ないことが当たり前」だからわざわざそれが意識化・言語化されない。
そしてその文化が開発されて常識が変わると、その商品が「あることが当たり前」になるから、やはりそのことがいまさら不思議には思われず、着目もされず意識化・言語化もされない。

ここで僕がいっているのは、司馬さんの「文化/文明」の用語法とはだいぶ違いますね。むしろ文化人類学者が使う、「人間の行動様式をかたちづくる要素」としての「文化」であって、これだと司馬さんがいう文化と文明、両方入ってしまいます。

僕の考えの実例を挙げますと、ちょうど博論で追っかけている水泳帽がそうなのですが、ここ三四十年より昔は、水泳帽というのは女子競泳選手と水球の選手だけがかぶるものでした。それが両国のフットマークという会社の文化戦略によって、「水泳帽をかぶる習慣」そのものが水泳帽とともに社会に普及して、まず学童から浸透していまではすっかり社会に水泳帽をかぶることが衛生的にもファッション的にも当たり前という常識が出来ました。

しかしこのことを資料で追う時に大変なのは、「社会に水泳帽が普及していない時代」には「水泳帽がないことが当たり前で誰もそのことに着目しない」ので「水泳帽がないから発生する苦労、弊害」も記録に残らないのです。逆に「水泳帽が普及してからの時代」は、「水泳帽があることが当たり前」なので、「水泳帽があるから免れる苦労、弊害」もいまさら誰も注目しようとしない。


 私としては,「水泳帽が皆がかぶらないときに,少数のかぶる人が被る苦労,弊害」から「水泳帽を皆がかぶり始めているのにかぶらない人が被る苦労,弊害」というように,常識が変わるターニングポイントが知りたい.『意識化されないほど常識化された社会通念』がまずあることはよしとしても,それが変わろうとするまさにその瞬間,すなわち,通念が崩れかけているのだが元の通念を持つ人がまだ多い瞬間.そのようなときに,新しい常識候補群は非常識,さらには反常識として,常識側からさまざまな攻撃や締め付け課せられる.それがどうやってはねのけられたのだろうか.

 ただし、それを理解するには、水泳帽をかぶる文化だけを見ていても理解できないのではないかと思う.すなわち,「ほとんどの人が帽子をかぶっていないのだが、かぶっている人を見ても他の人がそれをやめろと言わなかったのはなぜか.」「世間ではほとんどかぶっていないのに,学校で子供にかぶらせても親や世間がほとんど文句を言わなかったのはなぜか」「学校の先生はなぜ子供に帽子を被らせようとしたのか」。こんなことを考えてみたくなる。

 実体をよく調べなければいけないのだが,たとえば,ウォークマンを考えてみよう.なぜウォークマンは受け入れられたのか.これは利用者からの観点から語られていることが多そうだが,社会通念となりうるには,その当時にほとんどあるいはほぼ使わない人がウォークマンを受け入れなければならなかったはすだ.なぜ受け入れられたのだろうか.それまで電車や道路でイヤホンをして聞いている人は少数だがいた.トランジスタラジオを聞いている人だ.彼らは静かに何かを聞いていた.また,今でも多くの人は文庫本や新聞を読む.黙って音をあまり絶えず他人のじゃまをしなければ周りは受け入れる.ウォークマンはまさにそうだった.日本では少なかったが,映画などを見ると50年代か60年代頃(もっと後かもしれないが)アメリカでは公共の場でラジカセ(死語か?)をがんがん鳴らしてみんなで楽しんでいた.これは音楽を楽しむ側からすれば集団で楽しむという点でウォークマンと正反対であるだけではなく,その種の音楽が嫌いな人にまで強制的に音を聴かせる,あるいは騒音をたてるという迷惑行為であった.後者は反社会的である.しかし,ウォークマンはとりあえず,社会順応性を持っていた.いや,反社会性を持っていなかったとでもいえばいいか.しかし,後にイヤホンから出るシャカシャカ音に対する苦情が多く寄せられ,通念的対立は巻き起こったが.

 水泳帽にしても,衛生的という社会常識を利用しながら浸透したと福耳さんは書いているし,あるいは戦前であっても遠泳の時には帽子(水泳帽ではなく,体操の時に使う赤白帽だったかもしれないが)をかぶっていたのではないか.だから,学校の先生(戦前には生徒だった)には受け入れやすかったのではないか.既存の社会常識のかなりの部分を利用して,新しい製品(男の子用の水泳帽)を受け入れさせたのではないか.

 文化開発も創造の一部だとしたら,既存の多くの小文化を新しい方式で結合して,新しい文化を形成するということなのではないだろうか.


 また,福耳さんは,文化を「人間の行動を形作る要素」である定義している.とすると,文化は要素である.ただし,人間行動を形作り,形作るだけではなくその行動が実際に行われるという強制力を持たねばならない.具体的に見てみたい.水泳帽の例で言えば,水泳帽を被る習慣(行動)を形作る要素とはなんだろうか.衛生という概念? ファッション(確かに帽子を被らないで長い髪の人が自ら突然目の前に現れると怖い気がするが (^_^;) )なんなのだろうか? ウォークマンで言えば,家の外で一人音楽を楽しむという行為を形作る要素とはなにか? 

ここまで書いて力が尽きた.要素に関する議論は,おそらく社会学文化人類学などで語り尽くされているかもしれないので,今度調べてみたい.巨人の肩に乗らないと文化なんて語れないだろうから.



でももう一踏ん張り。

それはいつの時代にも、なにかを消費するときの選択行動には意識化されないほど常識的に共有された社会通念が社会にあって、たいていの人は無批判でそれに従うからです。そしてこの場合なら水泳帽を取り巻く周りの関連財や社会規範も、水泳帽がないときはないなりに、あるときはあるなりにバランスが取れているので、(水泳帽が普及していない戦前には男は丸刈りが多かったので抜け毛の衛生面を気にしないでよかったなど)、そのことを問題と捉えることも難しいのです。

 この引用から見ると,要素とは意識化されないほど常識的に共有された社会通念と読めますが.通念にも,常識にも共有という概念が入っていそうなので,社会通念でいいような気がします.ただし,意識化されないほどということが重要なので,意識化されない社会通念.でも通念ってほとんど意識されないような気がします.とするとやはり社会通念でいいか.
 
通念を通念たらしめている要因は何かを考える必要がありそうだ.それはたいへんそうなので,既存の小通念を使って新しい小通念を作った事例を集め,分析した方が早いかもしれない.