【追記】より深い思考へ至るためのメモ

千里山一里のエントリー「CMと音楽」より

広告は他者のことを徹底的に考え抜いたメッセージ。

思春期前の少年の合唱にはウイーン少年合唱団に限らず「天使の歌声」を我々は感じるようである。何か清々しく、俗世の欲望から遠く、したがって神々しい何かと通じるものを直観するのであろう。このことは当然ながら、教会音楽など宗教的な儀式にも利用された理由であり、また我々がそのように少年合唱を文化的文脈の中に位置付けて感じることになる契機ともなっている。
で、あまりにも当然のことながら「広告対象商品と広告の演出要素の間」には何らの必然的な結びつきはなくとも、一旦同時に露出されれば、あたかもそれが「あらかじめ結び付いていた」ように思われるのである。
こと、広告においてはこのような「恣意的な要素間の結び付け」が、表現の自由と同時に営業の自由として社会的に流布される、という特殊、かつ今日的な様式が日常化している。

かくして、露出後、音楽に持たれるであろう感情(情緒)は、住宅ブランド、住宅CMと容易く結び付き「送り手への好意的態度」を容易に形作る、という事象が一般化する。
楽しまれる分には、それは受け手の自由ではあるが、翻って「何もあらかじめ関係はなかったこと」、広告の作り手が「そのように意図して結び付けたこと」が、自覚の下にあまりにも沈むとどうなるか、という問題が出てくる。