部分的経験を積み重ねて生活が構成される

福耳コラムのエントリー『ものづくりからくらしづくり論へ』より

生態(目的)を先に決めて製品(手段)を規定するのが問題発見。これは製品-部品間でも成り立つ。製品(手段)を先に決めて、それでどれだけ人生をエンジョイするライフスタイル、生態(目的)をつくりだすかは理論値が決まらないから、「どれだけ達成したか」とか言えないので、問題発明。

 このエントリーだけでなく本来ならコラムの全体を読んで判断しなければならないのだが,このエントリーだけで言えば、最初の問題発見と定義されている内容は、一般に言われている「問題解決」ではないだろうか?

改めて定義を試みれば

  1. 問題発見:誰もこれまでは問題に接近できていなかったために問題自体が存在していないと思われていたのだが、後から見れば問題は既にずっと以前から存在していた場合。
  2. 問題発明:回顧的に見ても問題が存在しておらず、問題を存在させた時点から問題が成立した場合

こう考えると、上に問題発明の中に私がいう「問題発見」と「問題発明」があるように思えるのだが。


 ただし、発明だろうと発見だろうと、世の中にある問題をはじめて成立させたことという点では同一である(もちろんグローバルに見ればその問題は既に存在しているのだが,ローカルでははじめて気がつくということもありうるので,「はじめて」という言葉は必ずしも「グローバルに真にはじめて」という意味ではない)。


 私が面白いと思うのは,福耳氏の発明の定義には、問題の存否に関わる部分,およびそのプロセスに関連する部分があることだ。すなわち,問題を前提にしないという意味で問題志向ではないという点が前者に関わる.発明に関するプロセスは以下のようになりそうだ。個別ピースをその場その場の状況と自らの感覚・感性で集めたり消費したりする。それを繰り返すうちに、元々曖昧であるが保持していた自らの志向性にはっと気づいたり、もしかしたら自分はこういう方向性を持って生きているんじゃないかと思ったりして自らの課題を作り上げる.その課題や問題は、世の中に類似なものがごまんとあろうとも、まったくはじめてのものであろうとも気にかけない。


 もちろん、同じ志向性を持つ人と意見を交わすことは楽しいので,お互いのピース情報を交換したり、志向性を語り合ったりして、問題の解決(と言えるのかは疑問だが)をより効果的なものにしていくことはある.この意味で、個人的な段階にとどまり続ける必要はない。下の引用部分あるように,集団的なフレーム共有が起こり始めているのにいち早く気がついて,それをピース作りのみならずピース連結を行えればピース製造者は競争優位性をもてる(昨今のネットコミュニティからトレンドを見いだす−−『ネット・コミュニティのマーケティング戦略』−−とか,最先端の人々や当事者の生き方を人類学者のように探る−−『イノベーションの達人!―発想する会社をつくる10の人材』−−ということがフレーム探りということにつながるのではないだろうか).


 問題志向的ピース収集(中流の以上の生活のために,できるだけ大きい車を買う.借家ではなく持ち家志向となるなど)から離れ,気の赴くままのピース収集というような生き方は、最近のエクスペリエンス(経験)で議論されていることと近いように感じられる。


 もちろん、ピース作りの人々(企業)も、さらに小さなピース(部品)を組み立ててピースを作るためにある種のフレームを想定し,消費者に提供している。カローラとレクサスとではフレームが違う.そのフレームは,ただし,セグメントの消費者が持つ共通フレームを事前に想定してピースを組み立ているという意味で,問題解決的だ.しかし,消費者(この言葉では表現するのはいささか問題ありだが)の共通フレームが喪失したり,あるいは共通フレームの分断化が進めば,事前フレーム予測が当たらなくなり,ピース作成の優位性が失われる.もちろん作成の効率性は即座にはなくならないだろうが,ピースの作成量が減少していけば早晩その効率性も失われることになるだろう.


「全体-要素」関係は生態と製品、製品と部品の間において同型である。

あるいはフレーム-ピース関係。パズルのピースを変えないでそのままで、周りのフレームを変えて同じピースを転用するとき、ピースはハードウェアでフレーム全体の設計情報・生態構想がソフトウェアである。

ハードが世界の実体ならソフトは世界の使い道、構想。

ピースはそのままでもそのピースを要素とするフレームが競争力を持っていれば、ピースの供給で利益は上げられる。競合しているのはフレーム、つまりライフスタイル間関係である。


 ピースは製品だけではないだろう.製品が多そうなのだが,サービスもピースと考えても良さそうだ.もちろんサービスを提供するためには,提供者がある部分を製品というピースを使い,またある部分はサービスを組み入れることになる.もし,福耳さんがハードを実体のある製品という意味ではなく,ピースになりうるものをハードと考えているなら,製品とサービスはハードとなるだろう。私は、ハードの定義は、「ピースになりうるもの」と考えたい。


 こういうと最初の引用にあるように,問題発見だけに議論を限定しているように見える。なぜならピースを定義するためにはフレームがまず設定されなければならないからだ。というよりも,問題解決志向,あるいは問題志向ではない場合,極端なことを言えば,はじめにピースとかフレームとかという区別は存在しなくてもよいのではないか.車はピースでもあり,フレームでもあるからだ.
 車を,快適な乗り心地を求めて買う場合もあるだろうし,ステータスシンボルとして購入するかもしれない.それは,その場その場で判断すればいい.あるいは判断すらしなくていい.ステータスを規準に車を買えば車はフレームそのものになるし,快適な通勤をしたいと思えば乗り心地のいい車で移動するということになる.この場合は,快適な生活というフレームの下にあるので,車はピースだ.


 端的に言えば,フレーム・ピースという区分を利用すること自体,問題志向に毒されているのではないかと考えられる.ただし,これは仕方がない.われわれの周りには,問題が山のように存在する.今夜のおかずを何にするかということから,10年後のキャリアをどうするかまで,あるいは定年後に住む国(日本でなく外国に住もうとか)まで,問題だらけだ.もっと言えば,多重フレームの中に住む込んでいるのだ.


 フレームは自らで見いだされたものであれ,他人から与えられたものであれ(おそらくほとんどこれだろうが),フレームだらけだ.だから,基本的に問題解決志向で世を眺め,どんなにそれから離れようとしても,問題と手段という言葉から離れられない(端的に言うなら,人間が「生きる」という目的を抱いていると意識した瞬間から,問題志向から離れられないように思える).


 ただし,人から与えられただけの問題をあたかも自分で解決するように感じたり,あるいは問題解決の解を他者に依存し,時にはその解を効果的に提供してくれないという理由で他者を責めるのではなく,今あるピースを使って,時にはピースを自分で作り上げて自分なりの世界(フレーム)を作り出す.そんな人々を前に,どのように対応していくかを企業は考えなければならなくなったということは事実だろう(あとはそのような人々が世の中のどの程度を占めているかが問題だ.ロングテイルを取るか,ショートビッグヘッド−−こんな言い方はないか?(^_^;)−−を取るか.判断を各企業は求められるだろう,いずれか,もしかしたらすぐ先の未来で),


 ソフトウェアについて考えることをすっかり忘れていた(いったん考えてしばらくしから再度て同じことを考えようとしても、いったん収まった興奮状態を再燃させるのは結構むずかしい。だからこれ以降は短めです)。ハードを組み立てる知と考えてみたらどうだろうか。すなわち、ハードというピースから、全体像(フレームになるか、るつぼのようになるのかは事前には分からない)を作り出す知である。

 まずその構成を考えると、

  1. ピースがどこにあるか、機能はどんなものなのかを探る情報収集(企業側の広告⇔消費者による検索)
  2. 個々のピース間の整合性やピースの当てはめ方に関する方法(?⇔ネットコミュニティ?)
  3. 全体のできあがりの状態に対する評価。(社会から提示された大きな物語⇔個々人の小さな物語:これが参考になるかもしれない→『物語消滅論―キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」』)