セレンデピティー

対話とモノローグのエントリー『アンチとヘテロとパラ』より


先日の『私のセレンティピティーに関するエントリー』へのfukuさんのコメント『自分の現在の価値観にそぐわない要素もぽんぽん脳の中に放り込んでおくと、いつのまにか脳の価値観のほうが引きずられて変わっています。だから脳に入れるものを予め自分の脳を基準にして選ばないで、ある程度は行き当たりばったりで自分のいまの脳のフィルターを無視することが有効だと思っています。』があった。この放り込むということとセレンティピティーがどう関係するかをしばらく考えていたがなかなか上手く説明できなかった。

しかし、上のエントリー『アンチとへテロとパラ』で糸口を見つけたような気になった。

わたしは、複合の二つのテーゼとして、テーゼ thesis とパラテーゼ parathesis を考えたい。パラ para に、

傍らに、並立していて、よく似ているが、違っていて、対立しているもの

という意味を込めるのである。


弁証法自体は奥が深すぎて理解するのは困難だろうが,テーゼとアンチテーゼという対立のさせ方ではなくて,
テーゼとパラテーゼを「対掌」させるという考えは魅力的だ.

そして「対掌」とは

 アンチは矛盾、ヘテロは反対という論理的な関係を背景にしている。これに対して、パラには、そのような背景はない。パラは論理的な関係以前の関係である。この関係を対掌と考えよう。掌とは、てのひらである。

 対掌とは、右手と左手との関係である。実物と鏡像の関係にあるが、現実には、重なり合わないものである。傍らに、並立していて、よく似ているが、違っていて、対立しているものの象徴として、右手と左手を考えるのである。


 あるものの傍らにあるものを置く。それが「放り込む」ということなのだろう。しかも、この放り込む行為は偶然の衣装をまとっているが、そうではない。あるものがなければ、また別のあるものを傍らに置くことはできないからだ。


 あるものをまず意識の俎上に乗せる。しかし、その傍らに置くものは論理的関係以前の関係であるがゆえに、似ているが違っているものでしかない。似ているものを選び取るのは現在の価値観に影響を大いに受ける。では現在の価値観の掌の上でしか、テーゼとパラテーゼは生じないかというと、それも違う。


 それは似ているが違っているものという点だ。違うとはある一点だけの相違ではない。もちろん一点だけという場合も含むが、それは多点的相違となる。その多点的相違(論理的対当と元エントリーでは表されてている)は、人の頭の中で結びつけられることによって起こりうる。ある価値観の元で想定されるテーゼが持つ論理的な主張には、価値観によって保護され強化されている部分が内在している。パラテーゼはその部分に対して相違を持ち出すだけならば似て非なるものとして現価値観に吸収されていく。


 しかし、テーゼ内の価値観に保護されていない部分や、そもそもその主張にないポイントをパラテーゼが相違点として持ち出せば、テーゼの元となる価値観は大転換しないとしても、間隙を突かれ揺らぐ可能性はある。


 もう一つ、傍らに置けるものがあることに気づいた。似ていて違うものではなく、違うが似ているものだ。似ているものは脳内に放り込みやすい。現価値観の範疇に入りやすいからだ。しかし、違う事が先に来る場合には価値観から拒否されやすい。さて、これをどう放り込むかだ。


 第三に、下の例のように、まったく関連性がないものをどうやって脳内に放り込むことができるかだ。確かに、同じ物理学の世界のことであるから、価値観は類似しているかもしれない。しかし、傍らに置くことが意識化されなければ同じ価値観の中のまったく無縁な存在として、対掌されることはない。これをいかに対掌物として意識するかだ。

 複合論の二つのテーゼの関係は、一方から、矛盾や否定によって出現するものではなく、「独立なる二元」である。複合される二つのテーゼは、論理的な関係以前のものである。それはアンチでもなければ、ヘテロでもないのである。

 わたしは複合の二つのテーゼとして、次のようなものを想定している。

   1 ケプラーの惑星の法則とガリレイの落下の法則
   2 エールステッドの法則とファラデーの法則
   3 スピノザの規定論とカントの二律背反

 1 は、ニュートン力学として統一されたものである。2 は、マックスウェルの電磁波の方程式として統一されたものである。3 は、ヘーゲルの「論理的なものの三側面」として統一されたものである。

 例えば、ケプラーの惑星の法則は、ガリレイの落下の法則と矛盾するものでもなければ、反対の関係に立つものでもない。それは、はじめから論理的な関係に立っているものではなく、疎遠な関係にある二つのテーゼ(「論理的なもの」)なのである。ニュートンの頭の中で結び合わされることによって、はじめて論理的な「対当」が検討されていくテーゼなのである。矛盾、反対というような単一な関係ではなく、二つのテーゼのさまざまな側面に対して、さまざまな論理的な対当が現われてくるのである。


パラテーゼを成立させる(セレンティピティを生じさせる)ためには、現価値観のもとで、
①複数のテーゼを明確にしておく(といっても7,8が限界だろうが、テーゼの候補として曖昧なままにしておくテーゼ候補ならもう少し多く保持できるのか)
②似て非なるものをできるだけ多くため込み、テーゼの近傍に置く。
③非なるものを価値観によって排除させない。
④似ること非なることと無縁のものをいかに近傍においておけるか。



追記:セレンディピティーのもう一つの条件である偶然性を考えるために,対話とモノローグの著者の手による「補論6  弁証法と様相性」を読んでみたい。


上の補論と同じ著者の嶋さんの『第2章  認識の表出論とバイソシエーション』の中で指摘されているケストラーらのバイソシエーションの概念も面白い(『バイソシエーション』)。

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